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皇紀一六〇八年、天暦二年(戌申)京都比叡山、日吉神社より分霊を勧請いたしました。天暦二年は西暦でみますと九四八年になります。平 成十年でちょうど千五十年を迎えました。

 

 

大日本地誌大系(第七ノ巻)新編武蔵国風土記稿にはこのように書かれて います。

「山王社」御朱地拾石、村の中央にあり、本社宮造り九尺二間、拝殿三間、 二間、神体丸き石なり円周八、九寸別にかわりたる石とも見えず(現存)土人云古の神体は黄金をもって作れる扇子の開きたる日月星辰を錐したるも のなりと、いつの頃か賊の手に奪はれたり、後その形を真鍮にて作れる扇子と云えるもの近来のものにてはなく古色なり(不明)

例祭年々四月中の申の日なり、隣村下新田村、菅沢村、当村すべて三村 の鎮守たるにより、祭の頃は此の三村の者ども出てとり行へり、中に神輿の前後を馬上にて守護するもの十二人なり、村内を廻りて下新田村、菅沢村 をわたして夫より社地に還れり、此の山王社はもと比叡山坂本山王権現の遥拝のため設けることとぞ、故に比叡の宮などいへるものあり、是もその始 めをしらず、口碑に傳へるのみ

 日枝大神社は人皇六十二代村上天皇の御世天暦二年参月中日、京都比叡山坂本山王権現(日吉神社)の御分霊を勧請したもので、山王権現と号 し、比叡宮と称しました。始めは村(小田村)の西隅に社殿がありましたが、いつの頃から村の中央現今の所に遷座され(うつされ)たといわれます。旧 跡地には有名な銀杏の神木があって、大正の時代まで残っていたとのことですが、今はありません。

 旧幕(江戸幕府)の頃、御朱印地拾石(社寺に朱印状をもって下付した土 地)があって、隣村下新田村(現在浅田町)、菅沢村(現在鶴見区菅沢町) 等の総鎮守(氏神さま)でした。

 例大祭は四月中の申の日、神輿渡御の際は村内旧家十二人がいずれも 馬に乗り、警固供奉(警戒しお供をする)して村内(三ヶ村)を巡幸(まわる )しました。その行列は頗る古風を極めたものといわれます。

 王政維新(明治)までは真言宗円能院(前の寺)が別当職(お守りする) でした。明治六年十二月に村社になり社号も日枝大神社と改められ、例大 祭も五月十五日と定められました。

明治四十二年三月十四日、無格社浅間神社、杉山神社、神明社、下新田 稲荷社等を合祀しました。

大正十年四月四日、神饌幣帛料供進(国または市町村から産物を奉献)す る神社に指定されました。

昭和二十年四月十五日夜半、太平洋戦争の戦禍に罹り氏子(村中)の九割 と供に大空襲の下で一夜にして焼失してしまいました。

昭和二十四年五月十四日、本殿を再建して、昭和二十五年五月には仮の 拝殿と仮の社務所を建てて、昭和二十七年五月十四日に神楽殿を再建い たしました。

昭和三十一年四月十五日、御社殿が完成されて、五月十八日・十九日奉祝祭を行ってお祝いいたしました。

昭和三十七年四月十五日、社務所が完成されました。昭和四十五年二月 七日(初午の日)夜半心ない者のいたずらから神楽殿を全焼いたしました が、同年五月十五日に再建いたしました。

昭和五十年より、神社整備の一環として授与所(札所)建立。次いで昭和 五十三年御由緒掲載処を施置。昭和五十四年には大燈籠一対を奉献す ることができました。

昭和五十七年四月十五日、氏子中の御奉賛により、宮神輿並びに神輿庫 を再建され翌五月大祭当日、宮神輿渡御全氏子地域を巡行、四十年振り の祭事とあって氏子民の熱狂的歓迎を受け、盛況裡に行われた。

平成三年三月三十一日、現参集殿兼社務所を氏子中の御奉賛並びに神 社拠出金により完成され、盛大に竣工式典が執り行われました。

大山咋命(おおやまくいのみこと)。世に山王とも言われます。またその名を山末之 大神。大昔から比叡山に鎮座りまして、地主神といわれます。建速素戈鳴尊の御孫にあたり、御父は大年神(大歳神)、御母は天和流美津比買で す。御功績は、山城丹波地方(現在の近畿地方で京都府の大部分と兵庫県の一部)を開拓せられたことで、特に大堰川(今の保津川のようです)を治めて、 永く水害を除き人々の福祉を進められました。社に御一緒に祭られている神さまは、天照皇大神、大山津見命、木花開耶姫命、大国主之命、豊受 姫命です。末社として、八王子社、稲荷神社、浅間神社、神命社、大鷲神社が合祀されております。
 

現存するもので一番古いものはこの水石です。この水石は海石にて、享 保十九年甲寅、西暦1734年氏子の奉納によるもので、今から270年以上も前のものと考えられます。